プレイングオーナーはなぜ訂正しにくくなるのか――創設者シンドロームと「訂正の利益相反」

2023年、当時Twitterを買収してオーナー兼CEOとなっていたイーロン・マスクが、自社の社員とTwitter上で直接やり取りし、その仕事内容について公に批判する出来事があった。

その後、本人と直接話したマスクは、自分が事前に得ていた情報の一部が正確ではなかったとして謝罪した。[1]

この出来事は少し変わっている。

問題が起きた場所はTwitter。
問題を起こしたのはTwitterのオーナー。
相手はTwitterの社員。
そして訂正までTwitter上で行われた。

訂正可能性の事故現場になりやすいSNSで、そのプラットフォームのオーナー自身が当事者になった。

もちろん、マスクを典型的な「プレイングオーナー」と呼びたいわけではない。

ただ、普通なら人事、管理職、広報など複数の人間を経由するような問題に、オーナー兼CEO本人が、自社サービスの一ユーザーとして直接入ってきたという点は興味深い。

では、もっと小さな事業で、オーナー自身が日常的に実務まで担当していたらどうなるのだろう。

間違えたオーナーを、誰が訂正するのか。

そして、もっと厄介なのは、その「誰」まで本人自身になっている場合である。

プレイングオーナーと「訂正の利益相反」

ここでは、自分が所有・経営する事業で、経営だけでなく、実務、顧客対応、専門サービスの提供、情報発信などにも直接参加する人物を「プレイングオーナー」と呼ぶ。

個人店の場合

オーナー = 経営者 = 店長 = 接客担当 = 広報担当 = クレーム対応者

専門サービスの場合

経営者 = 専門家 = 商品開発者 = 営業担当 = 広告塔

これは本来、かなり強い経営形態でもある。

意思決定が速い。
顧客の反応が経営者へ直接届く。
改善もその場でできる。

小さな会社や個人事業では、役割を分けないこと自体が競争力になる。

ただし、本人が判断を誤ると少し奇妙な構造ができる。

判断した人、問題を指摘される人、その指摘が妥当か判断する人、そして会社としてどう対応するか決める人が、同じ人物になり得る。

誰も指摘してくれないことだけが問題なのではない。

指摘された後、その指摘を採用するかどうかを判断する人物まで、間違えた本人になり得る。

「独裁的な経営者」とは少し違う

独裁の中心にあるのは、他者の意思決定や異論を抑えることである。

本稿で見たいのは、実務・発信・評価まで本人が担うことで、自分の判断を自分で裁定する構造が生じることだ。

両者は重なることもあるが、誰かを支配していなくても、この問題は成立する。

「訂正の利益相反」

ここで、この記事の中心になる仮説を置いてみたい。

プレイングオーナーには、ときに「訂正の利益相反」とでも呼べる構造が生じる。

これは既存の学術用語ではなく、本稿で三つの事例を整理するための表現である。

訂正が必要かどうかを判断する本人が、その訂正によって、商品、専門性、過去の成功、これまでの発言、社会的評価、自分自身についての理解まで修正しなければならない当事者でもある。

つまり、訂正を判定する側と、訂正によって大きな影響を受ける側が同じ人物になる。

訂正の利益相反

自分=事業
商品・専門性・発言・自己像が結びつく

成功=正しさ
成功体験が自己判断への確信を強める

訂正者=自分
判断・説明・評価・対応を本人が担う

訂正コストが上がる → 訂正しにくくなる

もちろん、プレイングオーナーだから訂正できなくなるわけではない。

むしろ役割が集中しているからこそ、大企業より早く問題を認め、その日のうちに改善できることもある。

ここで見たいのは、「訂正するかを判断する人物」と「訂正によって大きなものを修正しなければならない人物」が重なったとき、何が起こるのかである。

Case #1 個人飲食店

――当事者が自分を裁定する

以前、ある個人飲食店を二人で利用した。

2時間半ほど滞在し、二人で3,000~4,000円程度を注文して話していた。

途中で追加注文を尋ねられ、その後、会計を求められて退店することになった。

問題に感じたのは、退店を求められたことそのものというより、それまで利用時間や最低注文額について説明されておらず、店内にもそのような表示が見当たらなかったことだった。

そこで後日、Googleレビューにその経験を書いた。

すると店側から返ってきたのは、謝罪や事情説明より、「追加注文は尋ねた」「そのような言い方はしていない」といった反論が中心だった。

それから数年後、当時の出来事を改めてレビューに書いた。

今度は相手そのものをなるべく断定的に評価するより、「私は怖く感じた」「この経験以来、個人経営の店へ入りにくくなった」という、自分側の経験や心情を中心にした。

ところがオーナーから返ってきた文章では、過去の出来事を蒸し返す人物だという評価、空気が読めないという指摘、勤務先や役職への言及、さらにはカスタマーハラスメントではないかという主張まで出てきた。

返信には、もう一つ興味深い部分があった。

Googleレビューには、子供を連れて行ける店かを答える項目がある。

そこで店舗自身が公開していた情報を確認し、「子供連れには向かないようだ」という趣旨を書いた。

するとオーナーは、子供連れでも問題ないと反論した。

しかしその時点で、店自身が公開していた店舗情報には「お子様連れNG」と記載されていた。

実際の運用がすでに変更されていた可能性はある。

それなら、「現在は子供連れも可能です。掲載情報が古いので修正します」で済む話である。

少なくとも、レビューを書いた側が根拠なく情報を作ったわけではなかった。

一方で、このオーナーが何でも否定する人物かというと、そうでもない。

別のレビューでは、料理や従業員の対応について問題を指摘された際に謝罪し、ミスを認め、改善や指導について説明している例もある。

つまり、訂正する能力そのものがないわけではない。

ところが、自分自身が行ったとされる判断や対応が問題として扱われると、応答の仕方が大きく変わる。

本人の心理状態までは分からない。

自分から切り離せる問題は訂正できても、自分自身が当事者になると自己防衛的な応答が強くなる

という非対称性は見える。

さらに現在は、当時とは別の人物が店長を務めているらしい。

もし当時はオーナー自身が店長として現場に立ち、現在は別の店長へ任せているのであれば、店舗ではすでに一つの「役割の分離」が起きている。

しかしGoogleレビューへの返信は、現在もオーナー本人が行っている。

店舗では分離された役割が、ネット上だけは分離されずに残っている。

当事者 = 説明者 = 裁定者

このCaseでは、この自己参照が特に分かりやすい。

Case #2 専門サービス

――自己分析しても繰り返す

二つ目は、音楽と身体に関する専門サービスを営む人物である。

この人物は知識の範囲が広く、自分自身でも「言語化」を大きな強みとしている。

実際、文章はかなり書ける。

音楽だけでなく、身体、心理、マーケティング、経済、科学など、複数の領域から概念を持ってきて物事を説明する。

そして重要なのは、この人物も訂正できない人ではないことだ。

過去にSNS上の議論が激しくなった際には、自分が感情的になったことを認めている。

別の論争では、辛辣な言い方や人格への攻撃があったとして正式に謝罪し、問題のある投稿を削除した。

さらに後には、SNS上の論争について、反論されると怒ること、相手の矛盾を整理して逃げ道を塞ごうとすること、自分の方が本質を理解しているという感覚を持つこと、正しさによって相手や世界を制御しようとすることなど、自分自身の行動を分析している。

ここまで自己分析できる人は珍しい。

ところが、その後もSNS上の衝突は繰り返された。

批判者の理解力や知性を問題にしたり、相手側の反応を心理学的な語彙で説明したりする。

このCaseは、先ほどの飲食店とは違う。

訂正できないわけではない。かなり深いところまで自分を分析している。それでも、似た行動が再び生成される。

しかも「誰も間違いを教えてくれない」とも言いにくい。

反論自体は、むしろ大量に本人へ届いているからだ。

問題は、その先にある。

不得手から専門性が生まれる

人が自分の不得手や挫折を出発点に、次のような経路をたどること自体は珍しくない。

不得手・挫折

原因を考える

構造化・言語化する

専門サービスや説明モデルにつなげる

成果や評価を得る

むしろ、自分自身が苦労した問題だからこそ深く考え、それが後の専門性になることもある。

この人物の場合も、本人が過去の不得手や挫折を積極的に言語化し、その一方で「言語化」を自分の強みとして位置づけてきた経緯がある。

もちろん、現在の事業がそれらを克服する目的で始まった、とまで言うことはできない。

ただ結果として、現在の理論やサービスが、自分が過去をどう理解し、どう乗り越えてきたかという自己物語とも結びついている可能性はある。

もしそうなら、理論への反論を受け入れることは、知識を一つ修正するだけでは済まない。

自分がこれまで何を問題だと考え、どう克服し、なぜ現在の立場に至ったのかという、自分自身についての説明まで書き換える必要が生じる。

さらに、言語化能力が高いこと自体も一方向には働かない。

自分の誤りを分析する能力が高い人は、同時に、自分の判断を守るための説明を作る能力も高い。

説明モデルへの反論まで、「なぜ相手がそのように反応するのか」というモデル内部の説明対象にできるようになれば、少し厄介である。

自分の経験

説明モデル

事業

成果

モデルへの確信

そのモデルで批判者まで説明する

反論がモデルを壊す情報ではなく、モデルで説明する新しい材料に変わる可能性があるからだ。

必要なのは単なる言語化能力ではなく、自分が言語化した理屈そのものを、反証される側に置けるかどうかなのだと思う。

Case #3 短時間睡眠

――自分自身が理論の成功例になる

三つ目は、睡眠に関するサービスを運営し、自身が極端に短い睡眠時間で生活していると公言している人物である。

このCaseは前の二つとも少し違う。

自説への批判に対して、自分自身が実際にやっていることが非常に大きな根拠になる。

最近行われた医師との対談でも、自説をめぐってかなり強い応酬になった一方、最後まで対話そのものは成立した。

さらに、自身が極端に短い睡眠を続ける様子を長時間公開する企画まで提示されている。

これは直感的には強い。

机上の理論だけではない。本人が実際にやっている。

しかし、本人ができることと、他の人にも一般化できることは別である。

一人が一定期間実行できたことは、その方法が長期的に安全であることや、他者に同じ効果があることまで証明しない。

理論を提唱する人
= 商品を提供する人
= 実践者
= 成功例
= 広告塔

つまり、自分自身が理論の証拠でもある。

その理論をもとに事業を行い、そこで得られた実績が再び理論への確信につながる。

自分が立てた仮説を、自分自身という成功例で補強する。

もちろん、自分自身の経験が無価値なわけではない。

問題は、それをどこまで一般化できる証拠として扱えるかである。

このCaseでは、特に「自分=事業」「成功=正しさ」が強く結びついている。

一方、この人物は批判的な医師と直接会い、強く反論しながらも話し合いそのものは続けている。

だから「訂正不能な人物」と決めつけるのも違う。

見るべきなのは、どの主張までが、反証されたら変わり得るものとして残されているのかだろう。

三つのCaseに共通する「自己参照」

三例は同じ問題ではない。

しかし並べると、共通する構造がある。

Case #1 自分の対応を自分で説明・裁定する

Case #2 自分の経験から作ったモデルを自分の成果で補強する

Case #3 自分自身が理論の成功例になる


自己参照

訂正の利益相反

一つ目では、自分の対応について自分が事実を説明し、その対応の妥当性まで自分で判断する。

二つ目では、自分自身の経験から作った説明モデルが事業につながり、その成果が再び説明モデルを補強する。

三つ目では、自分自身が理論の実践者であり、成功例でもある。

形は違う。

しかし、いずれも自分の主張を評価する材料の中に、自分自身が深く入り込んでいる。

「裸の王様」で終わるのか

ここまでなら、一言で「裸の王様」と呼べるようにも見える。

確かに、訂正されにくいという結果はよく似ている。

しかし今回のCaseでは、批判そのものが届いていないわけではない。

むしろ届いている。

大量の反論を読んでいる人もいる。批判的な専門家と直接話している人もいる。

裸の王様では「真実を言う人」が問題になる。

本稿で問題にしているのは、そのもう一段後、「何かを指摘されたあと、それを採用するか判断するのは誰なのか」である。

その判断者まで本人自身になっている。

「裸ですよ」と言う人が現れれば、それで終わる問題ではない。

創設者シンドローム(Founder’s syndrome)

――これは既に知られている問題なのか

ここまでの話にかなり近い既存概念として、創設者シンドローム(Founder’s syndrome)がある。[2]

創業者個人へ権限や意思決定が集中し、組織と創業者が強く結びつくことで、組織がその人物を修正したり、その人物抜きで変化したりすることが難しくなる問題である。

病名ではない。

創業者の人格を診断する言葉でもない。

むしろ、組織と創業者の関係の問題である。

創業者が強い自信を持つこと自体は、会社を作るうえでは強みになり得る。

周囲から無理だと言われても進む

自分の判断を信じる

素早く決断する

しかし、「周囲が反対しても進める力」と、「周囲が反対しても自分が正しいと思える力」はかなり近い。

そこへ、「実際に自分のやり方でここまで成功した」という経験が加わる。

成功体験は単なる自信ではなく、自分の判断が正しかったという経験的な証拠にもなる。

ただし、他の条件が成功に寄与していなかったか、同じ方法で失敗したケースはどうだったか、別の環境でも一般化できるか、過去の成功を今回の判断へ適用できるかは別の問題である。

創設者シンドロームは、今回の問題をかなり大きく包んでいる。

ただ、本稿で特に見たいのは、その中でもさらに狭い部分だ。

創業者本人が実務や専門家や発信者まで兼ねることで、訂正するかどうかの判定まで本人へ戻ってくる。

そこで起きる自己参照を、この記事では「訂正の利益相反」と呼んでいる。

訂正はどこで止まるのか

今回の三つのCaseは、誰も訂正していないわけではない。

むしろ、謝罪したり、自己分析したり、批判者と対話したりしている。

それでも似た問題が残る。

すると、「訂正できる/できない」の二択では粗すぎる。

既存研究には、この途中を考えるための別々の道具がある。

異論が届かない
→ Employee voice、心理的安全性など[4][5]

異論は届くが軽視する
→ 権力と助言採用、過信などの研究[3]

証拠の重み付けを誤る
→ 反証、ベイズ的な信念更新など[6]

行動だけ直して前提が残る
→ single-loop / double-loop learning[7]

訂正する本人に利害がある
→ 本稿でいう「訂正の利益相反」

これらを全部一つの理論へ押し込む必要はない。

むしろ、訂正は複数の場所で止まり得る、と考えた方が自然だ。

訂正には「深さ」がある

たとえば「謝った」という事実だけでは、その後に同じことが起きるかどうかまでは分からない。

組織学習論には、問題が起きたときに行動だけを修正するのではなく、その行動を生み出した前提まで問い直すdouble-loop learningという考え方がある。

今回のCaseを考えるなら、さらに構造まで分けた方が分かりやすい。

LEVEL 1 事実の訂正
認識・事実関係を直す
LEVEL 2 行動の訂正
次回の対応を変える
LEVEL 3 前提・自己モデルの訂正
判断を生んだ前提や方針そのものを見直す
LEVEL 4 構造の訂正
同じ誤りが起きても再検討できる仕組みに変える

重要なのは、「深ければ必ず正しい」という意味ではないことだ。

前提まで変えた結果、かえって悪くなることもある。

構造を変更した結果、意思決定が遅くなることもある。

ただ、どの深さまで訂正したのかを分けると、「反省したのに、なぜまた同じことが起きたのか」は考えやすくなる。

SNSは「訂正より先に公開できる」

現在、この問題をさらに極端にしているのがSNSである。

普通の会社なら、

担当者が書く

上司が確認する

広報・法務などが確認する

公開する

という工程を置ける。

一方、プレイングオーナーなら、

本人が読む

本人が判断する

本人が書く

本人が承認する

本人が公開する

まで、一人で終わることがある。

しかもスマートフォンなら数分である。

ここでは、訂正できないことだけでなく、訂正が働く前に世界へ公開できてしまうことも問題になる。

冒頭のマスクの例では、最終的には本人が訂正した。

訂正可能性は残っていた。

しかし、訂正が起きたのは相手を公に批判した後だった。

訂正可能であることと、訂正されるまで事故を起こさないことは別である。

さらにSNSには観衆がいる。

一度強く反論してしまえば、次に訂正する対象は元の判断だけではない。

「あれだけ強く言った自分は間違っていた」という、公開された自分自身まで訂正しなければならなくなる。

投稿を重ねるほど、訂正コストまで上がる。

AIは「公開前の査読工程」を作れる

一方、以前とは大きく変わったこともある。

AIである。

従業員がいる会社でも、オーナー本人がSNS投稿やレビュー返信を書き、そのまま公開することはある。

以前なら、その間に別の視点を入れるには、社員、知人、広報、法務など実際の人間が必要だった。

現在は、その公開前の査読工程だけならAIでも作れる。

AIを「人間の代わりに考えるもの」と捉えるより、次のように考えた方が分かりやすい。

入力 → 変換 → 増幅

マイク → ミキサー → アンプ

元になる信号は人間が入れる。

だから、何を求めるかで結果も変わる。

腹が立った店主が、「この客を論破する文章を作って」と入力すれば、AIは自己正当化を精巧にするかもしれない。

逆に、「自分側が間違っている可能性を検討して」「事実確認が必要な箇所を抜き出して」「人格攻撃になっている表現を削って」「第三者がこれを読んだらどう見えるか評価して」と使えば、公開前に別の処理を一つ挟める。

AIが正しい最終審級になるわけではない。

反証や再検討の経路を一つ増やすという話である。

ただし、AIも逆方向に使える。

自分

AI

強化された自説

自分

AI

……

出力を再び入力へ戻して増幅し続ければ、今度は本当にループになる。

音響機器ならハウリングである。

AIの場合は、いわば「認知的ハウリング」とでも呼べるかもしれない。

「訂正可能性」という問い

本稿の着想の一つには、東浩紀『訂正可能性の哲学』がある。[8]

現在の理解やルールを最終的な正解として固定するのではなく、新しい事例によって後から訂正され得る状態を重視する。

この考え方そのものには、私もかなり共感する。

ただし、本稿は『訂正可能性の哲学』そのものを経営論へ適用する記事ではない。

実際に訂正するには、何を重要な反証として扱うのか、どの程度の証拠で判断を変えるのか、どの深さまで見直すのか、いつ再検討するのかという別の問題が残る。

「訂正可能であれ」という原則だけでは、そこまでは決まらない。

そこで本稿では「訂正可能性」を、

現在の判断を、後から覆せる経路が残っていること

という限定した意味で使っている。

それ以上の万能な訂正方法を、この記事で提示するつもりはない。

そもそも、その方法を「これが正解だ」と確定した瞬間、それ自体を後から検討する余地がなくなる。

このあたりから話が少々ややこしくなるので、ここでは深入りしないことにする。

「誰が訂正するのか」という問いを訂正する

ここまで書いてきて、冒頭の問いも少し変わった。

最初は、「間違えたオーナーを、誰が訂正するのか」と考えていた。

しかし、特定の誰かを「正しい訂正者」として置けば、今度はその人が最終審級になる。

本人も間違う。
従業員も間違う。
顧客も間違う。
専門家も間違う。
研究も更新される。
AIも間違う。

だから本当に見るべきなのは、誰が訂正するのかより、訂正できる経路が閉じていないかなのだろう。

プレイングオーナーは、一人で多くのことをできる。

それは大きな強みである。

しかし、自分=事業成功=正しさ訂正者=自分が重なると、訂正するかどうかを判断する人物と、その訂正によって最も大きなものを修正しなければならない人物が同じになる。

そこには、少なくとも一種の「訂正の利益相反」がある。

その利益相反を完全になくす方法までは、この記事では分からない。

何を反証として扱い、いつ、どの深さまで判断を変更すべきなのかも簡単には決められない。

ただ、自分の判断を自分自身で証明し、自分自身で裁定し、その裁定まで覆せないものにする。

そこまで自己参照を閉じてしまえば、訂正はかなり難しくなる。

必要なのは、間違えないことではない。

間違ったあとに、別の答えへ移れる道を塞がないこと。

少なくとも、そこまでは言えるのではないだろうか。


参考文献・出典

  1. Associated Press, Elon Musk apologizes after mocking laid-off Twitter employee(2023)
  2. Block, S. R. & Rosenberg, S., Toward an Understanding of Founder’s Syndrome: An Assessment of Power and Privilege Among Founders of Nonprofit Organizations, Nonprofit Management and Leadership, 12(4), 353–368(2002)
  3. See, K. E., Morrison, E. W., Rothman, N. B. & Soll, J. B., The detrimental effects of power on confidence, advice taking, and accuracy, Organizational Behavior and Human Decision Processes, 116(2), 272–285(2011)
  4. Morrison, E. W., Employee Voice Behavior: Integration and Directions for Future Research, Academy of Management Annals, 5(1)(2011)
  5. Edmondson, A., Psychological Safety and Learning Behavior in Work Teams, Administrative Science Quarterly, 44(2), 350–383(1999)
  6. Bayesian Epistemology, Stanford Encyclopedia of Philosophy(2022–)
  7. Argyris, C., Double Loop Learning in Organizations, Harvard Business Review(1977)
  8. 東浩紀「観光客の哲学の余白に(26) 訂正可能性と反証可能性」webゲンロン(初出『ゲンロンβ65』、2021)

※各Caseは、筆者自身の体験や公開情報などをもとに構成している。個々の人物の心理・人格を診断するものではない。

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