「努力」「勇気」「甘え」という死んだ語彙――自由意志と自己責任という天動説

天動説的な宇宙観が崩れ、太陽中心の惑星軌道が現れるイメージ

「努力が足りない」と言う。では、その人の努力量は何によって決まったのか。

「勇気がなかった」と言う。では、その人の勇気は何によって決まったのか。

「本人の自己責任だ」と言う。では、結果を作った無数の要因のうち、どこからどこまでを「自己」と呼び、なぜそこで原因の分析を止めたのか。

一段掘るだけで、日常的によく使われる言葉は急に説明力を失う。

努力、勇気、甘え、自己責任。これらの言葉自体に意味がないわけではない。問題は、説明を始めるためではなく、説明を終了するための言葉として使われることにある。

科学が人間の認知や行動を調べるほど、原因は細かく分解されてきた。ところが日常的な自己責任論では逆に、大量の要因を「本人」という一つの箱へ押し込む。

この認識構造は、天動説と酷似している。

太陽が動いて見える。自分が決めているように感じる

地上から空を見ると、地面は止まり、太陽や星が動いているように見える。その観測自体は間違っていない。

問題は、観測者からそう見えることを、そのまま世界の機序だと考えたことにある。

自由意志も酷似した構造を持つ。「考えた」「決めた」「頑張った」「諦めた」という意識経験は直接知覚できる。一方、その判断に影響した神経活動、遺伝、発達、身体状態、睡眠、疲労、学習履歴、成功や失敗の経験、周囲からの反応、所得、家庭、文化、制度、その瞬間に与えられた情報などは、ほとんど直接知覚できない。

そのため一人称では「自分が考えた → 自分が決めた → 自分が行動した」という因果に見える。しかし、「自分が決めた」という主観的経験があることと、自由意志が因果の始点であることは別である。

アニメ『チ。―地球の運動について―』が扱う地動説の物語を連想するのも、単に「昔の誤った説」という比喩だからではない。観測者自身を中心に置けば非常に自然に見える世界像が、観測範囲を広げることで中心から降ろされていく。その認識構造が酷似している。

自由意志を調べた結果、「自由な何か」は見つかったのか

自由意志研究で有名なBenjamin Libetの実験では、本人が「動こうと思った」と報告するより先に、準備電位(Readiness Potential: RP)と呼ばれる脳活動が生じていた。そこから「本人が意識する前に脳が決めている」という強い解釈が広まった。

現在、この単純な解釈にはかなりの修正が入っている。Schurgerらは2012年、RPを既に成立した「無意識の決定」と考えなくても、神経活動の自発的な変動が蓄積して閾値を超えることで運動時刻が決まるモデルによって説明できることを示した。Maozらは2019年、結果にほとんど意味のない恣意的選択と、結果を考慮する熟慮的選択ではRPの現れ方が異なることを報告した。Libet型の単純運動課題を、そのまま人生上の意思決定へ一般化するのは難しい。

2024年にはDominikらが、Libet以後の関連文献2,220報を系統的に整理した大規模レビューを発表している。RPの意味、運動しようと意図した時刻の自己報告、課題設定など、古典的解釈への多くの批判が整理された。

しかし、重要なのは2,220というではない。問うべきなのは、Libetの解釈を崩したあと、自由意志という独立した原因が正の証拠として見つかったのかという質の問題である。

見つかったのは別の神経過程、確率的変動、情報の蓄積、閾値、条件によって異なる意思決定過程だった。「脳が意識より少し前に全部決めていた」という単純な説明が弱くなったことと、「では因果から独立した自由な私が決めていた」ことは全く同じではない。

むしろ人間を詳しく調べるほど、「自分が決めた」という一枚岩に見えていた現象が、さらに細かな機構へ分解されている。自由意志を探して中心へ近づいたつもりが、そこにもまた機構があった。ここにも天動説との酷似がある。

精神医学は、この因果系へ実際に介入している

この問題と精神医学は強くつながっている。

精神科医療では、人間の認知、感情、意欲、行動を「本人がその気になれば変更できる」という前提では扱わない。心理療法を行う。薬物を使う。睡眠や環境へ介入する。必要に応じて脳刺激療法を使う。

例えば、うつ病では心理療法によって思考や行動へ働きかけ、薬物によって生物学的過程へ介入し、場合によっては反復経頭蓋磁気刺激(rTMS)のように脳へ直接刺激を与える治療も行われる。

つまり精神医学では「外部から条件を変える → 脳や認知の状態が変わる → 感情、判断、意欲、行動が変わる」という因果関係を臨床で利用している。

そして、これは精神疾患のある人だけに適用される別の自然法則ではない。精神疾患のある人も、大きな環境的困難にある人も、特に大きな問題なく生活している人も、同じ人間の脳と身体を使っている。診断が付いた瞬間だけ突然「意志ではどうにもできなくなる」のではない。

早稲田メンタルクリニックの益田裕介医師も「甘え、根性論と病気の違い」で、精神疾患そのものを説明する前に、人間は自分で決めているように感じていても、文化、社会、脳、遺伝、身体状態など多くの条件によって判断や行動選択が強く制約されているという人間理解から説明を始めている。

精神医学はこの問題の例外ではない。人間の意志そのものが条件依存的であることを、特に分かりやすく観測し、実際に介入している領域である。

「努力」は原因であると同時に、結果でもある

「努力すれば結果が変わる」。これは普通にある。

しかし、「努力が結果へ影響する」ことと、「努力量を本人が自由に決定できる」ことは別である。

努力するかどうかも、睡眠、疲労、実行機能、不安、期待される報酬、過去の成功や失敗、周囲からの反応、時間、資産、身体状態などによって変化する。つまり努力は結果を説明する変数であると同時に、「なぜその努力量になったのか」と説明される側の変数でもある。

「成功しなかったのは努力不足だ」と言われたら、「なぜ十分に努力できなかったのか」と一段掘ればよい。そこで再び「本人が努力しなかったから」と答えれば一周しただけである。

勇気も同じだ。「転職しなかった。だから勇気がなかった」。では、その勇気とは何なのか。失職するリスクをどう推定したのか。次の仕事が見つかる確率をどう見積もったのか。無収入にどれだけ耐えられるのか。過去に何を経験したのか。現在どれほど疲れているのか。

そこまで分解すれば情報が増える。「勇気がない」で止めれば、行動結果へ別の名前を付けただけである。

「甘え」ならさらに反証が難しい。動かなければ甘え。途中で止めても甘え。助けを求めても甘え。どんな結果にも貼れるなら、説明力が高いのではなく、反証条件がないだけである。

これが「努力」「勇気」「甘え」が死んだ語彙になる瞬間である。

「自分はできた」は、生存者バイアスだけでは説明できない

この種の話になると、よく「それは生存者バイアスだ」と言われる。確かに一部はその通りである。成功して表に出てきた人は観測しやすく、同じ方法を試して失敗した人は見えにくい。成功者だけを見て成功法則を作れば、標本は最初から偏っている。

しかし、「生存者バイアスですね」で説明を終えるのも、「努力不足ですね」で終えることと構造的にはそれほど変わらない。専門用語になっただけである。

仮に成功者と失敗者を全員観測できたとしても、「努力した人ほど成功していた」という相関だけでは、「努力すれば誰でも成功する」とは言えない。能力、健康、教育、資産、職歴、地域、時期、情報、人間関係、利用できる時間などが異なる。それらは成功確率だけでなく、そもそもどれだけ努力できるかにも影響する。

さらに、同じ一人の人間を完全に同一条件のまま二つの世界へ分け、「十分努力した場合」と「そうでなかった場合」を同時に観測することもできない。

問題は生存者バイアスだけではない。標本の偏り、個人差、交絡、反実仮想の欠如、そしてn=1から別の人間への一般化が重なっている。

成功者と失敗者を全員見ても、それだけではまだ因果は分からない。

「努力」「勇気」「甘え」という日常語でも、「生存者バイアス」「認知バイアス」という専門語でも、名前を付けたことと説明したことは同じではない。

そもそも、なぜ要因を「誰か」に収納するのか

ある結果が起きると、「自分の責任なのか」「親なのか」「会社なのか」「国なのか」「社会なのか」という話になる。

しかし、ここにはもっと根本的な疑問がある。

なぜ結果を作った要因が、人間や組織という数個の箱へきれいに収まると思うのだろう。

例えば、ある人が希望する仕事へ転職できなかったとする。本人の応募行動だけで決まったわけではない。過去の教育、職歴、健康、居住地域、所得、家族、市況、求人数、企業の採用基準、面接官、競争相手、応募時期、情報へのアクセス、偶然などが同時に関係しうる。

しかもそれらは独立していない。所得が居住地域を制約し、居住地域が求人を制約し、職歴が応募可能求人を制約し、過去の失敗が次の判断を変え、疲労が実際の行動量を変える。

現実の因果はネットワークであって、責任を「自分」と「それ以外」へ配分する円グラフではない。

そこで「結局、誰の責任なの?」と問い直した瞬間、「何がこの結果を作ったのか」という因果の問題が、「誰にこの結果を帰属させるのか」という別の問題へ変わっている。

「責任」より先に、「要因」を問うべきではないか

責任について考えるとき、まず分ける必要があるものがある。

  • 「この人の行動が結果へ寄与した」
  • 「この人には役割上の義務があった」
  • 「この人が悪い」
  • 「この人に損失を負わせるべきだ」

これらは全部別の命題である。

しかし「自己責任」という一語にすると、「本人が行動した → 本人が原因だ → 本人には別の選択ができた → 本人が悪い → 本人が結果を負担すべきだ」と一気につながる。

途中には何本もの未確認の橋がある。

原因を分析したいのなら、まず扱うべきなのは責任ではなく要因ではないのか。そして要因を十分に分解できないとき、人間はその空白を「誰の責任か」という人物単位のラベルで埋めているのではないか。

「誰が悪いか」は、原因を調べた結果とは限らない

さらに、人間が因果関係を正確に分析し終え、その結果として責任を決めているとは限らない。

心理学では、有害な結果や人物への否定的評価が、その本人にどの程度制御可能だったかという判断にまで影響することが研究されている。

つまり「原因を調べた → この人の責任だった → 責めた」という順番だけではない。場合によっては「悪い結果が起きた → この人を責めたい → この人には避けられたはずだ → 本人の責任だ」という方向にも進む。

自由意志信念についても、不道徳な行為を見た後に自由意志への信念が強まり、その変化に処罰したいという動機が関係した研究がある。

つまり、「別の行動も選べたはずだ」という前提そのものが、責任を問いたいという側から強化されることがある。

責任は単なる因果の別名ではない。人を評価し、非難し、処遇を決めるための社会的な概念でもある。

競争社会では「結果の差」が「人間の差」に変換される

ここで競争社会との関係が出てくる。

競争そのものをなくすべきだ、という話ではない。採用枠、入学枠、役職、所得など、有限な資源を何らかの方法で配分しなければならない場面はある。

問題は、配分された順位を、人間そのものの価値や道徳性へ読み替えることである。

メリトクラシー(能力や成果を重視する配分原理)についての研究では、社会的な有利・不利が個人の能力や功績の差として理解されることで、不平等そのものが道徳化されることが指摘されている。

すると「上にいる → 努力や能力があった」「下にいる → 努力や能力が足りなかった」という変換が起こりやすくなる。勝敗という結果が「努力した/しなかった」「勇気があった/なかった」「甘えなかった/甘えた」という道徳語へ変わる。

そこで自己責任論には、原因を説明する以上の機能が生まれる。自分の位置を「努力した結果」と説明し、下にいる人を「努力しなかった結果」と説明すれば、現在の順位そのものを正当化できる。

責任という言葉は、ここでは社会的な選別にも使われる。誰を評価するか。誰を支援するか。誰に損失を負わせるか。複雑な要因を一つずつ分析するより、「本人の責任」と判定した方が圧倒的に簡単である。

「責任」から「要因」へ移ると、反省の意味も変わる

責任より要因を見るようになると、「反省」も違って見える。

「自分が悪かった」と強く思うことが、次の失敗を減らすとは限らない。重要なのは、何がこの結果を生んだのか、どの判断が間違っていたのか、何を見落としたのか、どの条件を変えられるのかを更新することである。

必要なのは自己処罰の強さより訂正可能性である。

以前の記事「なぜ炎上は止まらなくなるのか――『訂正可能性』と失敗が自己増幅する構造」で扱った問題ともここでつながる。

「本人の責任」で処理を終えても、その結果を生んだ条件が残っていれば、同じことは再発する。「誰が悪かったか」より「何を直せば次が変わるか」の方が、反省を実際の変化へつなげやすい。

「自己」も因果の外には立っていない

『チ。―地球の運動について―』が扱う地動説の面白さの一つは、中心だと思っていたものを中心から外すと、世界の見え方そのものが変わることにある。

自由意志と自己責任にも、同じ認識上の転換を適用できる。

「自分が決めた」という経験は存在する。しかし、その「自分」自体も脳、身体、経験、環境、社会などの因果系の中にいる。

ならば、「誰のせいか」より先に、「何がこの結果を作ったのか」を問う。

そして、「誰に責任を負わせるか」より、「何を変えれば次の結果が変わるのか」を問う。

「努力」「勇気」「甘え」「自己責任」で分析を止めない。「生存者バイアス」のような専門語でも止めない。名前を付けたところから、もう一段だけ因数分解する。

その方が、人間を説明する言葉としてははるかに解像度が高い。

参考資料

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